オーム、というのは声ではなくて、真理を伝える内奥の声ならぬ声のことらしい。
仏教用語
声を発するということは、その時代のことばの形式に従っているということであり、それは真理から遠ざかるかもしれないのだ。
しかし声を発してないのに真理を伝えるというのは、それは声ではなくてオーム発者の姿形や匂い気(においけ)によって
なのだろうか。
それだったら、オームというのが盲人や聴覚障害者、臭覚障害者には伝わらないということになる。
感覚受容体に少しでも訴えるのかどうかが問題である。
仮にどの感覚受容体にも訴えないのに伝わるのがオームだとしたら、なぜそのような無意味としか思えないものを観念したのか。
極度に観念的な体系を構築することで、それ自体は意味がないが、間接的には世俗権力の支えになったり、国家や社会の安定に貢献したりするのだろうか。
極度に観念的ということを純粋と言い換えることができるのだと仮定すると。
たとえば数学は、純粋な学問といわれるが、それは容易に他に転用できる。
それを純粋といっていいのかどうか。
転用性の問題である。
困ったギモンがでてきた。