2012-09-01から1ヶ月間の記事一覧

人口で見ないといけない

アイルランド文学は日本に合わないかもしれない なぜなら、今のアイルランドは人口450万人弱なのに対して、日本は12780万人超いるのでる。 国家としての規模が違いすぎる。 僕はときどき規模に対する感覚を失うことがあっていけない。 この大人口という問題…

疲れすぎて目も開けられないほどになった

日本は宗教が弱すぎる

だから少なくない信者を抱えるカルトがポコポコある カルトという繭がいくつもあるといった感じである 各カルトは繭から宗教感情が漏れることをすごく嫌うので、繭の外、つまり一般空間ではいつも宗教感情は疎外される 公衆の面前でおおっぴらに宗教感情を出…

漱石の胃炎に対するギモン

心がやられて胃に行ったのか ただの胃弱人だったのか 世界の大文豪を見ると書けば書くほど精力的になっている 漱石が、書けば書くほど衰弱していったとすれば、その文学がfalseだと自分で気づいていたからではないのか

日本における狂気を一言で言うとすれば

ただのごみ箱である

なぜプロレタリアートが成立しなくなったのか

ひとつは、どのプロレタリアートでもなんでもしうる。 消費もするし投票もする。 自由主義社会の上ではプロレタリアートはプロレタリアートである前にいち社会人であり、自由人である プロレタリアートがする契約もすべてが自由契約であり、強制されたもので…

アメリカ型新自由主義を後追いするのであって、自分から先行することはありえない

アメリカ型新自由主義が、大量の貧者を生んだにもかかわらず今のところとりあえずはうまくいっているので、じゃあ日本も真似ようということになる

sneer :嘲り、冷笑、軽蔑

sneer という単語が、My sneer could... という文脈で出てきて、どうにもわからなかった。 よく考えたら、アメリカ人は、嘲りを相手が誰であろうと自発的にしうる、ということがわかった。 日本人なら、嘲るときは相手を見て嘲る。相手がこんなにひどいのだ…

自由な暴力が日本でありえるか

いわゆる無差別殺人などはそれにあたるのかもしれない 無差別殺人と報道されるものから構成要素を並べると、単独犯、場当たり的、他者との相談なしに起こされる、目的が金銭その他にない、である そう考えると、自由とはなんと悪辣で蒙昧だろうということに…

裁判小説を書かないとだめなのかも

なぜなら、ドストエフスキーも、カフカも、裁判を書いている。 実際現実上の裁判というより、寓話的な裁判を書かないとだめだ。 コメディー要素を入れてもいいかもしれぬ。 裁判上の手続きをつらつら書くのもいいが、それではあまりおもしろくない。

社会が細分化しすぎてこれと特定できないし特定しても外れる部分があまりも大きくなる

こうなると、まず共通点を引っ張ってきて全体に敷衍させその上で話を展開させるという方法を採るのが上策である。 例えば性愛などはもっともやりやすい。 これが、憎悪となると、いまいち共通点となりにくいのである。 憎悪を共通点にすると、馬鹿じゃないの…

このまま書斎人になっていいものか

僕の資質を詩人に見るとすれば、日本的自然美を発見するために全国行脚に入らねばならぬ そのためには、一刻も早く放浪を始めないといけないのである このままちょっとした知識人で終わって詩人としての天分を腐らせていいのだろうか? しかしそれも勘違いか…

だいぶ参ってきた

とてつもない 負の感情が 雪崩や滝や台風や竜巻のように押し寄せ 僕は嗚咽しながら 叫びまわっているところである うわあ ひいい キャア ぎゃあ ひとつ思ったのは 非常にシビアーなことを考えようとする場合には 規則正しい生活というものが絶対に必要だとい…

不幸

僕はこんなにも不幸でいいのだろうか でも 東大出てないし 司法試験もやめちゃったし サラリーマンとしての経験もいまいち積んでいないので 当然の報いのような気もするのである でもめげてはいられない 僕の人生はもうちょっとだけ続く気がするから こうや…

僕が狂ったら大喜びして悪さをする人が結構おりそうなんだよ

だからおめおめと狂うことも許されん

よう考えたら漱石毎日30ページを3日サボっただけで精神はこれほどまでに荒廃した

漱石毎日30ページを復活させよう 張り合いがないとだめだ

だいたい、小説家になりたいかどうかというと

なりたくない気持ちも半分くらいあるのだ 嘘を言って金を儲けるというのはラケットであるという気持ちが消えない

分裂気質を活かした作風のほうがいいのだろうか、それともまともなほうがいいのか

『ダブリンの市民』で、人びとが何かをvulgarであると非難する場面が多い

それが、カトリックであることの誇りから来ているようだが、キリスト教者ではないこっちからみると、vulgarだと言える根拠がどこにあるかわからない むしろ、彼ら非難する人たちが、キリスト教のくくりの中で日々の信仰生活をただ繰り返すというところが、vu…

感受性の高さと信仰の篤さは両立するのか?

どうも、信仰の篤さが成り立つためには、感受性が低めで安定飛行でないとだめなような気がする いちいち激情に駆られる信仰者がありえるのか? 熱心党というのがあったらしいが、彼らの信仰もまともな信仰と思っていいのだろうか たとえば現代においてはイス…

学者

学者たちは よだれを垂らしながら間違いを見つけようとしているにちがいない しかし彼らのうちには 過去の正解を反芻するにとどまる者が多いのであるから 畏れすぎてもいかん ほどほどの敬意とほどほどの侮蔑 人付き合いのコツはこれであろう

ジョイスは今から見れば古典のように見えるが

1930年くらいの頃だと最先端なわけだ だから、堀辰雄や川端康成がジョイス文学を参考にしたといったら、手探り状態から参考にしたわけで、研究がある程度進んで学会の評価が固まってから参考にしたというのとはわけが違うと思ってよい

キリスト教の特徴の一つとしていつでも異端にしちゃえるということがある

聖書というものがあり、誰でも聖書を読んでいるのに、異端にしちゃえるということはどういうことか? 解釈が違えば異端になりうる しかし、聖書における解釈が一様ではないと言えるのはなぜか そういう議論がなぜ許されるかがわからない 聖書が文献学の対象…

僕は少しアナーキズムに傾倒しつつはあるのだが

アナーキズムをやっている人たちに敬意を払うべき人物がいないであろうことを直感的に理解してもいるのである アナーキズムの前に芸術をせねばならぬ 芸術なくしてアナーキズムなし しかしそう考えれば最初の芸術の段階でほぼ全員がはじき飛ばされる よしん…

社会主義は芸術を軽視しているのか?

社会主義者は、およそ、芸術の前に労働をもってきている 労働によって自己実現するという考えは、ヘーゲルが最初に考えついたらしい その後、工業の発展により、抽象的概念的だった芸術がだんだん資本主義上の労働にすり替わっていったようだ それからマルク…

なんで社会主義者も共産主義者も日本では流行らなかったんだろう?

おそらく、日本語社会では社会主義と共産主義は実現不能なのである 日本語が防波堤になっている まず、人が一つになれないようになっている 人が一つになるときには常に何かの留保がつく 少し日本における右翼に対する考え方を変えたほうがいいかもしれない …

だいたいニーチェやヘルダーリンや芥川(龍)やパヴェーゼといった明晰な頭脳ですら狂気に陥るということは

僕なぞは考え過ぎたら危ないのかもしれない いや、でもあるいは考え過ぎるまでに至らず平穏に終わるのかな

パヴェーゼはマルクス主義者だったらしい

僕としたことが見落としていた とてもそうは思えないが ただ、確かに、蒙昧な人たちの村に入っていって溶け込もうとするというところが、ナロードニキのような感じはあるにはあるのか それが目的のために溶け込むのではなく、村の女と恋愛関係に陥ってしまっ…

ドイツ語もイタリア語もできないのではがゆい思いをしている

ニーチェが芸術を肉体と結びつけていてがっかりした

肉体から来るようではだめだ 霊的芸術でなければだめだ しかし霊的というと形而上学になるからだめだぞーって言って馬鹿にされる ならばニーチェなど狂い死ね!と思ってしまうが、実際に狂い死んだ人にそんなことを言ってもこっちが馬鹿を見るのである