モンゴル民話

モンゴル民話を研究中だ
今昔物語集との関連性はあると思う
日本とモンゴルは辺境国家という共通点がある
海によって他国と隔てられているか山や砂漠によって他国と隔てられているかのちがいだ
日本相撲とモンゴル相撲が偶然の一致とは思わない
同じような力を欲したと考えたほうがいいだろう
比較文化論だ

小学生が叫んでいたうた

♪父が梅干しに祈るときー
とんぼとかえるが ガコン! けっこんしたー


これの意味はいったい・・・
梅干しとは日本のことか?
とんぼとかえるとは
とんぼは空を不規則に飛び回り(まるで空中をワープしているようである)
かえるは規則的にぴょんぴょんとぶが方向ははっきりしない
どちらも目線がつねにさだまらないといういみで
落ち着きのない動物であり
日本の近代における一種の軽薄さをあらわしているともいえる
そのようなとんぼとかえるの国だと
日本を最初に梅干しでたとえて
さらにそれに向かって父が祈るということ
父権の崩壊である!
そのように父が祈っている最中に交わるはずのないとんぼとかえるがガコン!と結婚する・・・
このガコン!という音こそ
日本における構造のいびつさ
接着部分の理不尽さをあらわしているともとれる
これらの対比にぼくは詩才を感じたのである
見事である
さらにいうと、その子はあきらかに中国人のような顔をしていた
楊逸ではないが、このような混血児が将来の文学において一翼を担うことがあるのかもしれない

アールブリュと素朴文学

ぼくが考える文学の純粋さは
市場におけるつくられた洗練と
相反するところがある
つまり僕は
売れっ子になる宿命にない
それでも僕の作品が見事ならいいのだが
あまりにも見事に書くと他の作家に排斥されるであろう
作家として生活するなら
腑抜けた作品を書くしか無い・・・

そもそも文学は・・・文学と見事さ

そもそも文学は
見事さを競うものなのだろうか?
僕にはそうは思えない
文学はいまや
いかに迎合されるかを競うものであるように思える
文壇村は・・・
前ほど輝いてはいない
ひっそりとしていて
やや閑散とした
にぎやかではない場所なのであろう
そこにはあまりにも経済原理が入り込みすぎた
しかもいっとう甘い経済原理が
なぜかというと
本という物によって文学が売られるからである
僕は本が古いと思うし
古すぎないとも思う
原初状態を考えなければいけない
しかしそれは当然金にならぬ
僕は生活を少し考えても良い

からすの死がい

高級マンションに住む同級生どうしとおぼしき女児たちが
自転車に乗って僕をとおりすぎたとき
「あのへんにからすの死がいがあったよ」
「え、ほんと?」
「うんしかも、首を横にして血をべーって吐いてた」
ということを言った
僕はそのことについて深く考えた
おそらく嘘であろうと
見たのはすずめかなにかの死がいだったろう
血を吐いていたはずもない
げんにぼくはいちどもそのようなものを見たことがない
ぼくがみたいままでいちばんこころにのこった情景は
からすがすずめを足でがっちりとおさえ
すこしずつついばむというものであった
そのさいすずめははねをばたばたしていたのだが
いっこうに死ぬ気配がないのが不思議であった
つまりはからすは殺しを楽しんでいたのであろう
からすのそのような
殺戮による快感を得るようなさまが
からすをとりのなかでとりがもつ純朴さや華麗さをもたない
例外的とりとしている
ならばあの女児はぼくを一目見て
例外的人間と判断したのだろうか?
それにしても
死がいというときにからすというものをだすというのが
いかにも文学的に優れている
そのような語と語のむすびつきのただしさ
あるいは
語と語の宿命といってもよかろう
それはコロケーションなどというようなものではなく
ぼくには日本的業のようなものだとおもう
ぼくは時々ふしぎにおもうのだが
ひょっとしたらぼくがちかくにいくと
あるひとたちはないはずの文学的才能が触発されて
なにかのすぐれた文学的営為をしでかすのかもしれぬ
しかしそのようなおとぎばなしのようなことが
果たしてあるのだろうか・・・
ぼくはほんとうに
ふつうの人間なのだろうか・・・