からすの死がい

高級マンションに住む同級生どうしとおぼしき女児たちが
自転車に乗って僕をとおりすぎたとき
「あのへんにからすの死がいがあったよ」
「え、ほんと?」
「うんしかも、首を横にして血をべーって吐いてた」
ということを言った
僕はそのことについて深く考えた
おそらく嘘であろうと
見たのはすずめかなにかの死がいだったろう
血を吐いていたはずもない
げんにぼくはいちどもそのようなものを見たことがない
ぼくがみたいままでいちばんこころにのこった情景は
からすがすずめを足でがっちりとおさえ
すこしずつついばむというものであった
そのさいすずめははねをばたばたしていたのだが
いっこうに死ぬ気配がないのが不思議であった
つまりはからすは殺しを楽しんでいたのであろう
からすのそのような
殺戮による快感を得るようなさまが
からすをとりのなかでとりがもつ純朴さや華麗さをもたない
例外的とりとしている
ならばあの女児はぼくを一目見て
例外的人間と判断したのだろうか?
それにしても
死がいというときにからすというものをだすというのが
いかにも文学的に優れている
そのような語と語のむすびつきのただしさ
あるいは
語と語の宿命といってもよかろう
それはコロケーションなどというようなものではなく
ぼくには日本的業のようなものだとおもう
ぼくは時々ふしぎにおもうのだが
ひょっとしたらぼくがちかくにいくと
あるひとたちはないはずの文学的才能が触発されて
なにかのすぐれた文学的営為をしでかすのかもしれぬ
しかしそのようなおとぎばなしのようなことが
果たしてあるのだろうか・・・
ぼくはほんとうに
ふつうの人間なのだろうか・・・