改句

きゐぴゐとしろいつ色の空いずこ
※なぜこうしたかというと何処どこ、という漢字に対して僕の感覚が相違を示していたことをいまになって痛感したからである。何処とかいていずこ、とも読めるが・・・ そのような漢語熟語によって表現すべきものではなかった。また、きいぴい、というのはいかにも露骨な音表現であり好ましくなかった。きいぴい、よりも歴史的で、難解な声であった。きいぴい、よりも引っかかる音であったのである。ここはきゐぴゐ、として、太古から響いてくるようなまぼろしともいえるような鳥の声としたほうがよい。いつ色と書いていっしょくともいついろとも読めるので幅があってよい。いつ色、と表現することで僕は時空を越えて連綿とつづく鳥の、健全な生存者たるものが醸し出す美、を見出しているのである。鳥の鳴き声はいっけん直截な音だったのであるが、昨今聞いたことのない独創性や孤独をも感じた。その鳥はひとりだったのであり、鳴き声は場違いな感じもした。どこか哀愁が漂っていた。妻がいる鳥とも思えなかったし、夫がいる鳥とも思えなかった。空いずこ、のいずこ、と、いつ色のいつ、は韻を踏んでいるのでもある。いつかわからない時空を横断して割って入ってきた声のようにも聞こえたのである。このように多様に解釈できるほうがうたとしてはよかろう。時間的横断、歴史的いったりきたり、そのなかでの共通項たる鳥の性欲いやもっと一般的にいって生存欲、だがしかし果たしてその現物たる鳥はどこなのか。この観察者あるいは幻視者Apprenticeである私が見落とした、いや見ていたのに忘れてしまっていたのか・・・ これは僕が感性を一時鈍らせていたらしいことへの反省のうたでもある。鈍麻していた僕をあざやかに切り裂いて往時のすぐれて感覚者であった僕をいっしゅん取り戻した、取り戻せたことへの、ひとなきして去っていった鳥へ感謝するうたでもある。