2013-06-01から1ヶ月間の記事一覧
段柄だんぺい : 《僧侶が談話のさいに手に持つ払子(ほっす)の意から》話の種。話題。 実地 :経験からくる知識や知恵
文学の固定化、漱石文学を唯一の正統文学にしようという企みである。 その際に周囲の作家を論破するという方法をとらずに、無視するという方法をとったのであろう。 ひとつ気になるのは、国家文学にしようとはしなかったということである。 なぜなら国家は破…
僕は否定という巨大な蜂の巣から滴る わずかな蜜によって生きていると言いうる それは甘いか酸っぱいかもわからないような 観念上の蜜であって 肉体的なものではなく 抽象世界の蜜である しかしこうなると次は 僕が具現していることが矛盾になるのである
とにかく苦しいんだ とんでもないんだ 何もかもすり抜けたのに 何もかも見える
どうやら僕の沙爾鄭というのが 狂人を百人選って集めたようなありようなのである 僕の中であれこれの狂気がくすぶって それはもっか平凡を擬したり痴呆を擬したりしつつ おならのような音をくぐもらせているのである そこでは内部では忙しいのだが外部ではひ…
それはサンクレティスムということである サンクレティスムの詩人は発狂の憂き目に遭っている人が多い ところが日本は習合しながらなぜか発狂していないのである というのも、おそらく薄い発狂の膜が国全体に張られているのである そこでは、発狂専業団体が…
ひとつは日本では習慣のまずさということがある
性交を押し出したい欲望がでてくる源は、性交だけとれば欧米と引けをとらなかろうという楽観的観測である
飽きられたことを性懲りもなく何度もやるということは興行主としては失格である つまり、国家やマスメディアや興行主ではない ひとつのトートロジー装置である かれらはことばを繰りながらことばから疎外されつつ、読主や投票主には自分たち以上にことばから…
ただ、陰惨な場面を書くというときに、その作家の個性がでないといけない 巷に蔓延する陰惨さをそのまま引き出して描くと、数年後にもうバナルになる 出すべき個性は、その作家の性的嗜好を反映していてもいけない 作家は性的嗜好を知られてはいけない 一番…
あまりにも難しいのである 頭がよくないとなれないが、よすぎてもダメだ 飽きっぽくてはダメだが、凝り性すぎてもダメ ひとつは、作家というのは作品を繰り出していくあいだにかたちが決まってくるといえそうだ じゃあまず作品を一個作らないといけない ここ…
『王子と乞食』はやはりすごい ただ、現代日本で貧富を描くと共産党に嫌われることは間違いなかろう 作家は誰からも嫌われないようにしないといけないわけである そうなってくると、誰ともつかない人が経済行為以外のことをやりつつときどき自由に性交したり…
福岡県かー シビアーだね 厳しい
富裕民居住区まで観察に行くと かれらがあまりにも悠然と生きていることがわかる 大多数の貧民がきょうあすのお金を手にするのに苦悶しているにもかかわらずである 格差というかこれは 何かのかくしであろう
日本でそれをやると労働者を愚弄しているようになりかねない それくらい日本の労働はハードなのである
ぼくの日本ぎらいは やや深刻である もはや日本が関わっているものなら どんなにすばらしく見えるものでも底意があるように思えるのである 素直に日本を愛しかけていたぼくは それなりにいいばか面であったはずである 今のぼくは うちひしがれた浮浪人の顔を…
映画でもそうなのだが、商業主義が先に来ている それぞれの監督の中に、新芸術運動の傾向はあるにしても、傾向にとどまるわけである 新芸術運動が商業的スパイスにすぎないと言われても仕方がないとすら言える 新芸術運動のほうが作品よりも重要ということに…
新芸術運動をちらっと見せ、まわりに笑顔をふりまいているような映画監督は、器用で成熟した立派な大人と言われて好印象を与えて評価されるのであろう 運動にもっていかれる人間は幼稚なのである もっと広くとらえれば、なんらかの概念に引きずられることが…
総スカンをくったんじゃないだろうか 新感覚派といいながら、そのじつ感覚の仕方は旧世代や現世代ともほとんど変わらないのである 新感覚派が哲学運動であると考えるとまちがう 感覚は最小の要素という西洋風哲学理解でいくとまちがう 感覚は慣習であるとす…
どうやら日本は 不可能性に満ちているのである かれは「性交ならできるよ」とぼくにささやき 煽情的であったりそうでなかったりする ごまんの女をぼくに差し向ける そして「ほらほらほらほらほら」とせっつくのである ぼくはというと かれに第三の性器を見る
おそらく学者たちは ぼくの十倍以上の速さで文章を読み ぼくの百倍以上の理解を達成しているであろう ぼくはあまりにも読むのも理解するのも遅い さしずめ鈍行である
新感覚派は、感覚重視なのが新しいのであって、新感覚でことにあたるのではない
すべからく機能主義であって、営利企業がそうなのは仕方がないにしても、国営の国がそうなのである
機能主義が徹底すると、なんの機能かは重要ではなくなるのかもしれん つまり、機能自体が重要になり、なんのために誰がどうやって何をするかは問題ではなくなるのである たとえば今では商業主義に傾いているようにみえるが、なりゆきじょうそうなっただけだ…
主義に殉じないかわりに人に殉じるということかもしれぬ この観点から見ると、三島由紀夫割腹自殺ははじめて主義に殉じた自殺なのだと見ることもできる
日本における卑怯さは日本からは出られないのである
日本の笑いは卑屈を助長させるために機能することがほとんどである
trap=落とし穴=穴=口 穴というのは自然のもので、それを人間の身体に寄せていく 不自然なものを人間の身体に寄せて理解を容易にしようとする「身体論」とは英語の考えかたは違うところがある もしかすると、「身体論」ブームは日本特有だったのではないか…
ところが、身体論の人は容易に説明できるところにだけ身体論を持ち出してくる フランス哲学者がたとえば「器官なき身体」と言ったらこっそり物陰に隠れて聞いていて、うまいことこれを利用しようと思うのがまず先に来る そして、軽く当てたあとはとんずらし…
弱い体制と思われたのではないか それまでは、強い体制と思われていたわけである