日本発の新芸術運動ってないな

映画でもそうなのだが、商業主義が先に来ている
それぞれの監督の中に、新芸術運動の傾向はあるにしても、傾向にとどまるわけである
新芸術運動が商業的スパイスにすぎないと言われても仕方がないとすら言える
新芸術運動のほうが作品よりも重要ということにはならないようだ
なぜこうなるかというと、日本的現実主義というところがあるのだろう
アメリカ的現実主義であるプラグマティズムの場合は、どうやら過去を現在と同価値において批判検討をするのだが、日本的現実主義は過去を「伝統」として現在まで連綿と続いているレールとみなしているようである。
少し考えてみればわかることだが、レールを一部外しただけでも列車は横転事故を起こし、多大な被害が出る可能性が高いのである。
すこし脱線して考えると、ひとつは顔であるのかもしれぬ。過去への顔、周りへ見せる顔、映画の中に出てくる顔。どれひとつとっても顔向けできない顔はないわけである。考えられる顔の中で日本で最も嫌われる顔は何かというと、「新しいものに気づいてハッとしたときの顔」ではないだろうか。そのような自律的なハッとする作用は日本では顔に求められておらぬ。