『ダブリンの市民』で、人びとが何かをvulgarであると非難する場面が多い

それが、カトリックであることの誇りから来ているようだが、キリスト教者ではないこっちからみると、vulgarだと言える根拠がどこにあるかわからない
むしろ、彼ら非難する人たちが、キリスト教のくくりの中で日々の信仰生活をただ繰り返すというところが、vulgarを受け入れる人たちよりも俗人ぽく思えるのだが
小説中で、人が何かをvulgarと非難する場面が、だいたいにおいて、新しいものや目立っているものを非難しているわけであり、それは感受性の低さや無理解や先入観や偏見からくる頭ごなしの拒絶のようにも見え、はたしてキリストがそういう拒絶を好むかどうかは、わからないところがある。
うがった言い方をすると、最も俗人的になりうる人間が、信仰生活を送りさえすれば俗人たりえなくなるという仕組みがあるのかもしれぬ。