キリスト教の特徴の一つとしていつでも異端にしちゃえるということがある

聖書というものがあり、誰でも聖書を読んでいるのに、異端にしちゃえるということはどういうことか?
解釈が違えば異端になりうる
しかし、聖書における解釈が一様ではないと言えるのはなぜか
そういう議論がなぜ許されるかがわからない
聖書が文献学の対象になるということは、聖書が相対化されて、最後には聖書は否定されてキリスト教は消滅するかもしれない
たとえば日本で「万機公論」といったときに、古事記を否定したり天皇を否定したりしたらヘタしたら刑死する。ということは、「万機」の内容は最初から限定されているということである。
キリスト教社会では、一応はなんでも議論すると考えていいのだろうか。
だとしたら日本社会とは大きく違う。
イスラム教には異端というのがあまりないようである。