久しぶりに作家・平野啓一郎さんの顔を見た

だいぶ老けたなーという印象だった
35歳前後には見えないくらいである
語彙は大事だという言論新聞界のキャンペーンがあるらしく、その関連でゲスト出演したという感じか

  • -

語彙というものを、誰がいつ決めるのかという問題がある
たとえば、ナチスが決めた用語とかは、そのときは語彙だけどナチスが崩壊したら語彙じゃなくなる
まちがった語彙は語彙ではない
逆に言うと語彙ならすべて正しい語彙しかない
天皇制がまちがうことはないから、語彙がどんどん累積していくことになり、捨てる機能が働かなくなる
そうなると、あとは機械的記憶者の独壇場になるのである
ここに苛立ちを覚える人もおるだろう。
日本における語彙はいつでも語彙じみている。
生きている言葉を危なげをもって操る人を見て楽しめる、というよりはうんちくを語ってしたり顔でにやけ顔の老人の顔が見えるのみである。
なんとしても語彙を破壊せしめねばならぬと思った。
しかし、昨今そんなことをしている暇も余裕も甲斐性もないのだ。
今は、外国から見る語彙ということを考えたい。
しかしそれには各種欧州言語ならびに中近東や各アジア地域の言語、先住民の言語などもやらねばならぬ。
ぼくの無能でそれはかなわぬ
そこでまた激怒である
しかし、怒ってもしょうがないのでぼんやりしているしかない

  • -

造語をやる、というのは偉いのかもしれぬ
やはり魯迅は偉い
しかし魯迅は外国人だからやれたということもある
在日がじゃっかんいやらしい造語を作って消費を促すという日本広告史の現状がある。
しかしそれは造語というより、何かをこすってできたようなものである
造語はまったく新しい観点から作らねばならぬ
私にはなぜかその才能がない