『東京島』に不満が募ってきた

何かと至らない点が噴出してきた。
一つは島の自然のすごさが見えないこと。やわな箱庭的フィールドにしか思えなくなってきた。暴威をふるう自然というのではないのだ。しかし、暴威をふるうとなると、物語を面白くするためにわざとそうしたようになり、それもまた不自然でだめであり、難しいところである。
一つは人間以外の描写に粗が目立つこと。人間の心理描写はそこそこそれっぽいような気もするが、人間以外の描写が、大体において名前だけであり、質感にまではほとんど至っていない。急造された情景描写なり背景描写なのである。人間主体の小説の場合、背景や外部や環境は後ろにさがればいいかというとそれはそうだが、平面的で列挙的なだけのものであれば、それはかえってない方がよい。背景をぼかすもしくはなしにするということである。『東京島』では、現存食品メーカーの名前がちょくちょく出てくるが、別に名前を出さない方が面白い。とはいっても、海外の小説ではよく現存食品メーカーの名前が出てくるので、ことさら言う事ではないのかもしれない。
一つは、時間がおかしくなっているのに小説の時間軸が平凡なのである。何がどうなったかわからなくなる錯乱の描写が足りない。錯乱を描写せずに、謎の死によって錯乱状況の説明に足りるとしているのかもしれないが、ある集団の内面を描くにあたって、ひとりの女の語りだけでは不十分である。しかし一人称体を取っているので他人の内面は語りえない。そこで、会話をもってそこをカバーすればよい。しかし『東京島』においては、短い会話しかなく、そこが不満なのである。気の利いた会話でなくてもよいが、引き込まれる会話があればよい。地の文でリズムを取ったり、気の利いた熟語を使ったりして遊んでいるのはよいが、その遊びが目立つということは、小説で重要な部分となるはずの会話のところが目立たないということでもあるのだ。
今のところこれくらいだ。