無鉄砲

無鉄砲というのの語源がわからない。
無鉄砲というのは考えなし、直情的、だという意味だと思うが、なぜそうなのかがわからない。
ふつうに考えたら、たとえば無作為、無作法のところの、作為や作法が鉄砲に置き換わったのだということはいえると思う。
だが、鉄砲というのがなぜ作為や作法と同列に扱われるのかが次には問題になる。
それで少し思ったのだが、まあ無鉄砲ということばがはやるきっかけになったのは『三四郎』だと思うが、これは、『三四郎』の時代背景というのが日清戦争の三年前に発表された時期、つまり日本が軍国化にすすむ前の一時の平安期というところが重要になってくると思う。
鉄砲が作法になるような時はすぐ近くまできていたのだ。あるいは、個々具体的な作為というのではなく作為の全体的意味が鉄砲なしでは考えられないというような時とも言いうる。
そこで無鉄砲というような、軍国主義とは無縁の好人物を描いて、少しでも軍国化を押しとどめようとしたと考えると考えすぎだろうか。

よくみると鉄砲というのは、刀の形骸もないのであり、刀の進化形ではまったくないといえる。あくまで伝来したものであり、鉄砲とは和魂洋才の洋才の部分しかない。日本の軍国主義はほとんど国風性がない。あるとすれば、軍事組織のありようだけであり、持っているものは洋才のものであり、それを律するのは・・・貧者を律する規律であり、それは古参兵のいびりであり・・・ムラ意識であり、議論ではなく怒鳴り散らしであり・・・
だがムラ意識は、ムラ意識そのものであるなら、戦争にはならないのではないか。
そもそもムラ意識は、他のムラを観念することができないというところに本質のひとつがあるのだから。
だとすれば、ムラ意識によって引き起こされた戦争は、他のムラが相手というわけではないのである。
それは一種の妖怪退治、悪霊調伏の性質を帯びることになるのではないか。
であるにも関わらず、近代法は守られていたのであり、それは近代法遵守意識というよりも何か別の意識による守られかたであり、それはどうやら利益を重んじるという意識なのだが、それが自分の利益のことなのに国益ということばに置き換わり、国益というとまだいやらしい感じがするからもっとクリーンにするためには、、、
ふーむ、、、