時代即応の怪

僕の文学は時代に即していなければならぬ
かといって時代迎合ではだめだ
さて、昨日からジェイムズジョイスの顔写真を飽くなく眺めていたが
かれは賤しい顔をしている
にもかかわらずかれの文学は顔ほどには賤しくない
これによりわかることはすなわち、文学はその人の人格を越えねばならぬ
自分より少しは上の文学を書かねばならぬ
ということ
さらに改めて踏まえるべきことは、文学の形式が文字のみによって成り立つと考えるのは狭量だということだ
さて
踏む と 踏まえる の違いを考えたい
踏まえる とはなにごとか?
捕まえる 捕らえる 捕う
しかし捕(とら)う はなくて 逮捕 捕縛 になる
踏まえる の主体は身体ではなく、人格であるようだ
ということは、捕まえる 主体も人格ないし法人格ではないのか?
案外気づかなかったことである