中国と日本の民観

中国には民を水にたとえる詩がある、というのを新聞で読んだ。
日本では「民草」というように、民を草にたとえることがある。
水と草。
日本で水というのはなんなのか・・・
「水に流す」、「水を差す」、「水くさい」、・・・
(みずから)、
(向こうみず)、
・・・
川の流れのように」というのは人生の指針ということで、人格をそのようにしようという考えのようだ。
川は人にたとえる。
「海のように広い心を持つ人」では、海も人にたとえられる。
ところが水を人にたとえるというのは聞いたことがない。
水というのは川や海や湖の基本構成要素であり、元素みたいなものだ。
こういうのは日本ではたとえにならないのかもしれぬ。
それは、元素それ自体ではなんにもならないということを意識してのことなのか。
そういう意味では、科学をふまえることが多いのが日本なのか。
即物的であって、東洋的感情に流されたりしないのが日本なのか。
民である水がうねって水上の船を倒すというのが中国の詩の要旨らしいが、どことなく大げさであり、
オーバーな表現とも思える。
日本で言うと、民である水がうねるというのは、箱型の美の基本モデルがあるとして、その箱の空間の範囲を飛び越えてしまうような表現である。

日本では、水はどこの水もほとんど飲めるし活用できるので、あまりくせがないということもあるのかもしれない。
水、というのが反撥したりするようなものではない。
従順、という感じはある。
だが、日本では台風などでの水害はある。
しかしこれは天変地異であって、それに対するのが治水であって、それは民をおさえることとは別の話である。
天変地異がないと水害は起こりえない。
民の気分では水害は起こらない。
ところが、草というのは、日々草むしりや手入れをしないとうまく御することができない。
いっぽうで草に関する過去の事例を積み重ねれば、草の伸び具合などの草に関する事情は経験的知識として積み重ねることはできる。

・・・??