平民の平民性

平民が平民だというのが、貴族ではないから平民だということなのだろうか。
ないことを証明するのは難しいといわれる。
貴族というのは今では法的にも制度的にもなくなったとされる。
だったら貴族文学も徹底破壊せねばならないのだろうか。
しかし貴族文学は国体と癒着してるから引き剥がしにくい。
たとえばロシア革命があったときには、貴族文学は完全に破壊されたと思われる。
それが正しい歴史というなら、ロシアには国体と癒着する文学がなかったということかもしれぬ。日本に革命が起こらなかったのは文学が抑止力になったということかもしれぬ。
であるなら、日本においては正しい歴史は求められていないということになるのかもしれぬ。
正しい歴史がないということは、自明な歴史しかないということだろうか。
自明な歴史において認識するのが歴史認識だとすると、歴史認識問題というのは認識の問題にはならない。
自明なことに対して認識するとは言わないからだ。
自明なことはどこからどうみても自明であるというのがその本質であると思われる。
ということは、歴史認識問題というのは、便宜的な問題にすりかわり、資本主義のポンプを通った先は補償問題となるのかもしれぬ。
補償問題ということになればあとは処理の問題であり、感情や判断が入り込むところではなくなる。
ということは、歴史認識問題は精神の問題ではない。
心からは切り離されるということになる。
したがって、歴史認識問題においては、心が痛むから何かするというより、統計データや自白などの裁判資料になりうるものから判断して金銭保障を行うということになる。
だから旧日本軍兵士たちの自白が抑制されるということになったのかもしれぬ。