西部劇における投票

名作映画といわれる「駅馬車」を鑑賞中だ。印象的な場面があった。危険を承知で先に進むかどうかを決めるさいに、どうしようかということになり、関係者(outfit:一団)全員で投票をしようということになった。アメリカ社会には早期から投票によって最終的意思決定をするということが浸透していたのかと驚かされる。このころはおそらく1870年くらいだから日本では明治時代初頭である。どうもアメリカにおいて投票は形式的に民主主義を満足させるためのものではなく、差し迫った現実的問題に対処するための方策として用いられていたようである。
I'll tell you how we'll settle it. We'll take a vote. Inside, everybody.
と言い、投票を始めて、立場が弱い女性に対しては
Now, Mrs. Mallory, I ain't gonna put a lady in danger without she votes for it.
と言っている。

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仮に日本でこういうことをやると、その日からその団体は仲たがいして空中分解してしまいそうなものだが・・・
「根回し」して「一件」を「落着」させることが多いのが日本のようである。しかしその「根」とは何なのか。なぜ植物にたとえたがるのか。問題はその植物志向のほうである。植物になりきることで言質を取らせないという計算があるのだとしたら、なかなか計算高いと言わざるをえない。しかし植物は計算しないのであり、その点ではなりきりが中途半端である。「それならばいっそ植物人間になればいいではないか」と言われても仕方がないところではある。