ビンラディンの死を大喜びしているアメリカ市民

アメリカ市民が、ビンラディンの暗殺にわいて、大いに喜んでいるらしい。
少し疑問なのだが、どのような凶悪犯の死であっても悼まなければならないということが人道(ヒューマニズム)ではなかっただろうか?
しかしアメリカは、昔からアウトローを処刑することを見世物にしていした。
そういう意味では、映画「ブラックホークダウン」でもあったような、アメリカ兵を現地人がなぶり殺しにして市中に引き回す、という行為は、アメリカが普段やっていることを現地人がやったということでもある。
それがアメリカを逆上させることにもなるだろう。
悪者の死を喜ぶという、このような、人道における例外、がなぜ認められるのか。
おそらく、自由と個人主義を容認した国においては、その許容したぶんだけ、それらを逸脱した人間に対しては容赦なく罰してもよいという考えがあるのであろう。
いっぽう、自由と個人主義を本質的、全面的には容認したわけではない国においては、誰のものであっても死は悼むべきだという考えが支配的になるように思う。
誰かが死んでお祭り騒ぎになる、ということは、たとえば日本からみると、少し考えにくいのである。
まったくmournの気分にならないということは、他社への共感不足であり、いまふうにいうと、KYである。
しかし、アメリカでは悪者の死に喜ばないほうがKYであり、悪者の死を喜ぶということは、いってみればKM(空気盛り上げ)である。