AV文学

AV文学というのがある
どういうわけか、喜劇的になっている
僕は徹底的悲劇としてAVを扱わねばならんと思っている
具体的には、登場人物が全員絶望して自殺するAV小説を書かねばならないと思っている
なぜAV関係者が自殺しないかというと、そこには役割分担した上での諦めと自負と連帯と共感があるからで、役割を果たしているから金がもらえるという目算があるからであろう。
目算。
問題は目算である。
そしてそれに応える社会である。
応酬。
目算と応酬。
AVが市民権を得る。
それはアメリカ的ポルノグラフィーか。
在日。
AVに占める在日は極端に多い。
ところが、今あるAV文学は、その在日の要素をすっかり除去することに尽力し、
実はAVを描くことではなくてAV文学がやる、その在日除去の努力にたいしてかなりの報酬が支払われているとも言えるのである。
ということは、これ以上ないほどの在日AV文学をものせねばならぬ。
しかし、これは簡単なようでいてなかなか難しい。
なぜなら、出版社が腰を抜かして逃げ出すからである。
ならば、現行日和見出版社を一切無視しなければならぬ。
ところが、出版社を介さないと、もっと言えば巨大印刷文化利権のフィルターを通さないと、
文学作品としては是認されない。
そのような不恭順な文学は水子になってしまう。ところで、水子は供養するのが風習である。
水子を愚弄し、とことん貶めることは、日本人にはどうもなじまない。
「バカ水子」とは誰も言わないのが日本なのである。
うーむ