義経と水子

義経水子も、敗者である。
敗者を遠ざけようとするのが欧米風の考え方である。
ところが、日本民衆は敗者に共感することが求められている。
勝者を崇めて勝者を目指すなよ、という体制からの要請があるのであろう。
かわいそうかわいそう、などといっている間にも勝者は次々に敗者を蹂躙搾取する方策を実行し続けている。
ふぬけた同情などをやって怠けている暇などない。
それなのに、ただでさえ負けてるのに、さらに負けるような思考枠組みを強制的になぞらされる。
これはどういうことなのか。

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そのいっぽうで、欧米では敗者に対する施徳というところが重んじられている。
それも、宗教を介さないものがかなりある。
日本では、新興宗教がそれをやっている。生保などの申請時に、後ろに新興宗教がいれば通りやすい。こうやって構造的弱者をサポートするわけである。
立ち上がってひっくり返そうとは誰も思っていない。オウムくらいしか思っていなかったのである。

敗戦後の枠組みを遵守しようという姿勢を全員が取っている。
それしか見えなくなっているし、それしか見ないことが求められてもいる。
その状況でホクホク顔の人はいっぱいいる一方、いわゆる独立志向を抱くような人は、潜在的な人も含めて、大部分が潰れてしまうわけである。