『草枕』

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。 :この文章に「鬼畜米英」の萌芽がある。外国には人がいないという決め付けである。人がいないところを侵略しても罪はない。特に、アジア諸国には人がいない、人情もない、世間もない、何もない、ならばなんでもやってしまおうということになる。欧米にある「人情」から見て日本における「情」が浮かび上がるが、アジア諸国からはコンテンポラリーなところでは漱石は何も見出さない。見出すとしても古代中国の隠者の詩、「東洋の詩歌」である。それを自らのことのように「うれしい事に」といっているprotagonistは、ここで中国の隠者がものした古代詩歌をアジア的業績と誇っているようで、実は、中国が日本よりも近代では立ち遅れたということがはっきりしたというところから、昔業績を残したが今は没落した元貴族である中国を安心して再評価している。このような思考は、西洋思想を高等教育機関で学びながらも平均的思考法と結論しか獲得できなかった日本人に特有という点で、きわめて日本的であり、その点、日本人インテリを象徴するという点では成功している。しかし、この思考法はuniversal intelligeneから程遠いところから生まれている。そこから何か素晴らしいものを結実するとは思えぬ。何より、欧米知識人には誰でも少なからずあるengagementがこのような日本人インテリにはまったくないのである。では、日本におけるこの種の知識人が徹底的に傍観して詳細な分析批判をするかというと、傍観をsabotageしてどうでもいいところにはengagementする。どうでもいいところにengagementすることによってcharadeを演じる余地ができ、とんでもなく重要な問題を顧慮しなかったことに対して責任逃れが可能となるのであることからすると、この種の「知識人」はかなり悪質でありwickedであると言わざるをえないのである。