日本語では自分がどうされたか相手に説明する

その説明用語は、客観的評価が基準になっているようなのである
これを突き詰めると、主観的評価はないということになる
そうなると、主観的評価をする人間は間違っているということになる
まったく評価がないということになればどこから客観的評価を借りてこなければいけないが、どこから借りてくればいいかがわからない
そこで、広い意味でとらえたところの有職故実というものが大事になってくる
今までぼくは有職故実儀礼の問題だと思っていたが、実は評価の問題なのであはないかと思えるようになってきた
有職故実にのっとって行われる行為は、行為性があまりないわけである
過去の評価をなぞることが主目的であるので、肉体さえなければ行為をしなくていいはずなのである
ところが肉体はなぜか必ずあるので、行為せざるをえないのである
さて、有職故実があるとはいっても、そのおおもとはどうなのかというと、それはわからない
そこが問題ではあるが、深入りは無用であろう