倒錯というが

そこから倒錯したそこも倒錯していたらどうなるのだろう
二次倒錯ということになるのだろうか
倒錯とは嗜好における逸脱を表すと仮に定義するとして
嗜好は個人の自由を保証するという民主主義社会大原則からみれば
十分に許容されて良いものである
とすればこの仮定義はだめである
ならばもうひとつより現状に即して仮に定義するとすれば
倒錯とは集団傾向からの離脱ということになるだろう
もうひとつ考えるべきなのは
倒錯というときには必ず個人が想定されるのであって
倒錯集団となればもう倒錯とは言いがたくなるということである
あの団体は倒錯しているとは言われ難い
かならずあの団体のなになにさんがやったしかじか行為は倒錯しているというようにある特定行為が問題になる
もうひとつ倒錯ということでみるべき観点もある
性としてみればどうということだ
たとえば純日本なものに傾倒すればそれは倒錯とはいわれない
ここで純日本とは国籍ということではなく自らに生前から刻まれた印のひとつと考えてみると
男らしさ日本らしさ社会人らしさ等々というような
いわゆるらしさの問題に至る
らしさからの逸脱
らしさとは命令だろうか
命令違反を下す者に対して軍隊なら厳罰に処すべきだが
平和な民主主義社会では研究がなされてしかるべきであろう
いわゆる通例用法から倒錯を用いるとすれば
憲法で平和主義が宣言されているのに
自衛隊があるとすればそれは倒錯であるはずである
ところが自衛隊にもよってたつところの法律がある
いっぽう個人がなんらかの行為を個人的にやる場合によってたつところの法律はない
特に新しいことをやるひとは何によっても守られない
強いて挙げるならそれが利を生むなら資本主義に守られうるというくらいである
ぼくはイスラム国に志願した若者はひじょうに現代的で なかなか鋭いと思っているのである
イスラム国くらいしか新しいムウブメントを起こすものが無いといえなくもないのだ
手持ち無沙汰な若者にとっては唯一の新しいフロンティアとなったのかもしれないのである