免罪符

免罪符というのは、免罪符を発行しても、他の宗教団体が「うちは免罪符なしでも救われますよ」と
言い出さない状況になったから発行したんじゃないかな。
つまりは、免罪符発行団体が支配的であり全盛になっている。
支配が完了し全盛になればかならず凋落する。
その凋落のありかたとして宗教改革を経る、ということになれば全壊よりはましである。
だから宗教改革を容認したのではないか。
うーむ
しかしそういうことよりも、民衆の反発、反感、いわくいいがたい改革の機運とういことのほうが重要だろう。
だが、最終的容認がなければ、それは黙認の形式をとるだろうが、それはおこりえない気がする。
なぜなら、容認しないのであれば潰すしかなく、潰すなら早いにこしたことはないのである。
免罪符問題のときに、保守派という考えが出てきたのではないかという気もする。
たとえば免罪符を発行した人だけを破門にしてもいい。見せしめでやってもいい。
なぜそうしなかったのか。
それほど免罪符を発行したところが多かったのか、
免罪符自体悪いものだと言う考えは免罪符発行団体の幹部たちにはなかったのか。
らくだが針の穴を通れないのは体が大きいからであり、極限まで痩せれば通れるかもしれず、少なくとも通る可能性はあがる。
そう考えると、金持ちとらくだの格言は、金持ちに献金せよと呼びかけているふうにもとれる。
そこからいくと、免罪符はむしろ正しいことをより円滑に行わせるための方策にも思える。
滑稽で露骨な形式をとることで、カジュアルな献金ができるようになる。
ただ問題はそこにはなく、なけなしの金を払って免罪符を買う層が多かったことではないだろうか。
家の中が免罪符だけになったとしたら、生活は苦しくなる。
苦しくなっても免罪符が何かためになる効果を起こしたりはしない。そこからくる怒りが宗教改革につながったのかもしれない。
ということは、免罪符購入者特典や、購入後のサポートがあれば、何か状況は変わったのかもしれない。
しかし当時の動産売買は売りっぱなしだろうな。
そこがよくわからない。