アメリカ人の数字感覚はなぜ一個飛びか?(未整理)

stand ten and twelve deep ということばがある。
アメリカの口語表現で、十重二十重と訳すしかないことばであるが、直訳すると、10〜12の列になっていた、である。
しかし良く考えて欲しい。
日本語だと十と二十は2倍開きがある。
時速2〜30キロとよく言われる。
日本では、20キロ〜22キロとはいわない。
ところが、アメリカ人の感覚では、ten and twelve というわけだ。
(きっとtwelve and twenty-two とはあまりいわないが、それはさておき)
だがアメリカ人も、一桁台前半のときは2〜4とはいわない。
2〜3、である。
それが二桁になると、とたんに一個飛ばしで言うようになる。
一方日本では、2桁のときは十の位にひとつ加える。2〜30になるのだ。
だいたいこの表記がおかしい。2〜30ではなく、02〜30だろう。
それを縦書きの時には、「二、三十」と言ってしまう時点でおかしなことである。
十重二十重というので、日本人の頭は思考を放棄しているということがわかる。
日本人にとっては、十以上はとにかくいっぱい、である。
どうやら日本人は、桁があがる時点で頭のたがが外れるようである。
ところがアメリカ人は、十以上になっても、一個飛びで考える。
ところで、5前後のときはどうか?
わたしが見たなかでは、アメリカ人の発想だと、距離をいうとき、eight or ten feet といっていた。8〜10で一個飛びである。
やはり一個飛びである。
なぜアメリカ人のカウントのパターンが一個飛びかと言うと、おそらく、数字に引きずられない感覚があるのだと思う。
飛ばしてもせいぜい一個まで、なのである。
これを現実的な感覚としてみると、失って許せるのは一個まで、というシビアな私有の感覚も見えてくる。
ところが日本人は、なだれを打ったようにどっと崩れて数えてしまう。
どっと得てどっと失ったようでいて、何も得てもないし失ってもないような感じなのである。
物持ちが良い悪い、ではなく、日本人は物持ちが薄いのではないか。


さて、時速2000〜3000キロとなるとどうか?
おそらく此処に至ってはじめて日米の表現は一致する。
非現実的な話になれば、人種間の思考法はほぼ同じであり、ニュアンスの違いはなくなる。
ここにSFの可能性があるのだ。
SF的表現が、世界文学足りえるのである。