昨日の月

月にないのは自覚と意志である。
美しさというものに、何らかの自覚と意志が欠かせないとする近代的美学からすると、月は美しくない。少なくとも近代的には美しくない。
しかし月はおおむね美しい。
人が美しいといったときに、そう表明した人に安心を抱かせるのは、その美しい状態が変化しないという未来の蓋然性のとてつもない高さだ。
月を美しいといえば、その人が美しいと思ったその時の月は少なくとも明日もあさってもまた同じようにある。
もしも同じようにないとしたら、月を美しいと思ったその人が何かよからぬ変化を起こしたに違いないのだ。
それは気まぐれな個人の堕落なのである。
このようにして、月の美しさは客観的かつ無批判的な美しさになる。
しかしそこに、ただ美しいというだけではない近代性を加えねばならぬ。
近代性が美しさをどう変質させたかを考えねばならぬ。
美しさは近代性の中で、「美しさ」という担当部門を占めるのであってはならぬ。
そういうものが多いのだ。
近代性は細分化したものを、それぞれ自立したかに見せかけて、その実かれの牙をそれらに食い込ませているのである。
しかも食い込ま