なぜ、いいところがなくなるのか?

まず、新しいものはいいところがあるものだとする。
ところが、時間経過があると、だんだん腐敗する。
すると、よくなくなる。
それは、一気にはよくなくはならない。
徐々に飲料用水において塩分の濃度が上がる感じである。
気がついたら、飲めたものではなくなる。
だが、そもそも、時間が進むにつれて、マルクス主義によると、よくなるはずなのである。
歴史観が、先へ行けば行くほど進化して、よくなるはずだ。
したがって、旧勢力、具体的には既存勢力は、抵抗勢力なのだと、そうなっている。
これは、マルクス主義は、末法思想とはまったく違う。
そもそも最初がよくて最後になるほどだめなのが、末法思想
最初は最初なりにいいかもしれないが、最後に近づくに連れてよくならねばならないというのが、おおざっぱだが、マルクス主義であろう。
だから、これは、鋭く対立する。
末法思想マルクス主義が。

でも、末法思想というのが、攻撃性を持つかというと、何もそういうアタックするという気風が、末法思想側にはないようのである。
ただ呆然と、粛然と、沈黙して坐するのが、末法思想のようである。
諦念ともいいうることだ。
しかし、これは、末法思想側の怠慢というか、油断というか、そういうたぐいのもので、これまでも今まで通りでやってきたのだからこれからも今まで通りで大丈夫だろう、くらいの軽いが信心深い予測があるのだ。
ところが、実際、何の問題も起こらないことが多い。
これが不思議で、この国には、体制が幾重にもあるわけで、やっぱり、むかしからある、職の体系というのが、現代でもある感じがして、そこからはずれたら、全然ダメだが、ちょっとでも引っかかっていると、まあ安心、なわけなのだ。
で、その職の体系の本質を、ひとことであらわすと、さまざまなパターンで織りなされた、ディスコミュニケーションの体系ではないかと思う。そして、ディスコミュニケーションとは、双方において、一方の回路を遮断する、または両方の回路を遮断する。というようなものではなく、ひとことでいって、非情報化、なのではないだろうか。非弁別化、非理解化、非判断化、とも、いいすぎかもしれないが、いえるかもしれない。ようは、わけのわからぬ寄り目の状況にするのである。というと、私が日本ぎらいの人なのではないかといわれると、困るのだが・・・
あくまで、そういう傾向が推測される、というだけである。全部が全部そうではない。