『よい子』 一、

一、
よい子のはずだった。
正しい知識と体験を積み重ねたならば、よい子になるはずであった。
よい子というのは、万人が認めるよい子である。
階級、宗教、所属する法人、その他の雑多細目なコミュニティーの違いによらず、よい子はよい子でなければならない。
そのようなよい子は、串刺しの形で道徳を実行し、またその道徳は伝播されなければない。すなわちその子は、道徳そのものでなければならない。
そんなよい子は、生身の人間であってはならず、もしも不幸にもその子が生身の人間であるのだとしたら、できるだけ生身であるという性質から離脱、いや、
脱却せねばらならず、少なくとも遊離くらいはしていなければならなかった。
しかし私は、よい子というその子が、現実世界にわかりやすい形であるというふうに考えるほどに楽観主義者ではない。
というよりも、よい子などおらず、よい子というのはよい子であることで何らかの利を貪りたいがための、本心は資本主義に毒された、ただの時代の亡者である、
子であっても例外はないのだ、したがって子は子であるだけなのだ、と思ってもいた。よい子などを観念することはばかばかしい空想であって、よからぬ境遇に通じる幾多の道の一つであろうことは疑いがない。
とはいえ極端な悲観主義というのが資本主義が安定的に供給される一部の人員に対して要請するものであり、ぼくはそれをなぞっているだけのような気もしたので、腹立ちまぎれに女を叩いた。
女は「わあ!」と言った。
そこで僕はもっと叩いた。女はうめくような笑うような声を出しはじめた。
これ幸いと僕は叩きに叩いた。
僕は不意に頭部のどこかに衝撃を感じ、気を失った。