長編作家のすごみ

すごみがある作家は誰かというと
地縁血縁からくるすごみのある作家になるとしたら
それは作家個人のすごみではない
日本特有の社会での慣習や条理からくるすごみなら
それは実は「立て板に水」である
能弁というときに使われることばは、世間における能弁以外の「立て板に水」があまりにも常態なので、
かえって能弁が「立て板に水」ということが珍しく貴重なのでそういうことわざとして定着したのではないか
つまりよくあることだが、ここでもことわざの言わんとするところは能弁以外で「立て板に水」になっている他の状況なのである
なぜこういうあてこすりが日本人の言葉には多いのか
(ところで法律はほぼすべてがあてこすりのような気がする)
すごみの話にもどるが、もちろん作家のすごみがあるというときにそれは社会が求める状況からくるものではあるまい
作家が作家活動における徹底、苦悩そして達成、その達成済みの建造物をまた取り壊し、建て直し・・・という一連のてんてこまい、によって、
その作家のすごみを日本社会が求める位相からもっと高次の位相に高めたとしても、しかし、
大多数の市民層から見たときにすごみはやはり日本社会が求める位相にとどまっているのであり、
それはつまりすごみというのが作家と市民層のあいだで見え方が違うということである
問題は、作家が出すところと市民層が受け取るところの目線が違うところにある
目が通い合わない・・・
欧米においてブックフェアーがよくあり、作家が自ら自分のブースで自分の本を読者と語らないがら売るということがあるらしいが、これは、目を通い合わせるという点で、重要なのではないか
日本でも一応サイン会ないしは握手会というのがあるが、これは本屋の客への還元の方法の一つということを飛び越えるものではないと思う
日本的サイン会の問題はむしろ、そこでなければサイン会は開かれないというところにあり、作家の囲い込みの成功を内外に示すというところにある気もする
さて、目が通い合わないというのは資本主義における製造と販売のプロセスを忠実になぞっていると言えないか
製造者が販売者にはならない
そしてしばしば間に加工業者や卸業者が入るというのが特に日本ではよくある資本主義の状況である
もっとも、そのようなほほえましくはない状況があるとしても、作家のうちでえらく強い人たちは、かえって自らの聖性が保たれることになるので、改革や改善に乗り出そうということはしないであろう
作家は、それほど性格のいい人たちばかりではないのである
引っ張れる足なら引っ張っておこうという心構えの作家が複数人いたとしても、驚くべきことではない