踊念仏ということ

どうやら、その、一遍というのが踊念仏をはじめたというのは、
踊るというのが、この大差別国家である日本に対する反対「運動」だったのではないかと最近思うようになった。
反対「運動」の「運動」の部分が、身体運動だったのだ。
そしてそれは、念仏と連動している。
念仏というのも、発声という身体運動のひとつだ。
自らの肉体において有するさまざまな器官の組み合わせ活動をするということ。
それによって忘我ないし傍観を得てひとときの憑依状態、トランス状態を楽しめるようになったのではないか。
そこにおいて精神性はないではないかという批判がこの考えにはきっと来るだろう。
しかし、精神性は庶民には見られないし、あってはならないものなので、最初から精神性を含まなくてもよいのではあるまいか。