日本においては正しい身体というのが常に意識されているのではないか(未整理)

「同輩中の首席」という言葉を考えたときに、じゃあ内閣以外の人間は何かというと、外部の輩(やから)であり、
相手にならない人間たちなのだ。
同輩という概念がひとつの身体を形成していると考えていいのではないか。
「同輩中の首席」というのは、内閣という疑似身体の頭部を担当するということをあらわしているのであり、頭部は人間という身体からみれば
最も重要かつ偉大な部分なので、敬称にもなるし、愛称にもなる。
同輩という概念は、学校の部活やサークルなどでもあらわれる。
後輩、先輩ということばは、輩ということばの前に時間性がある言葉がついてそれらの形になる。
輩(やから)とは本来話しにならない人間、まじめに問題にすることにはなりえない他者、厄介な他人、のことである。
その前に時間性が付与されるというのは、時間がその同輩の概念のある共同体の中にありながら同時にその共同体をくるみこむと考えていいのではないか。
極論すると、日本では法的な意味ではないが法的でもある場合のある各法人それぞれにおいて時間は断絶しており、共時ということはほとんどありえない。
そして、それを補完するために疑似連帯の時間を演出する部門もある。
考えすぎだろうか・・・?
幼稚な発想なのかもしれない