不誠実なのではないかと思ってしまう・・・

実地調査しないわけだ。アイルランドの庶民を描くにあたって。追憶と想像とで書いているわけだ。
文学史的に見れば、ディケンズがイギリスの庶民を書いたとして、それに対して少し遅れてジョイスアイルランドの庶民を確かに描いている。
(帝国以外の文学は必ず「遅れ」を身にまとうということを、改めて意識する必要があろう)
それだけではない。
帝国主義に組み伏せられる庶民という大きな汎(およそ)の域にある対象について書いているといっていい。
それはすばらしいことなのだが、なぜジョイスアイルランドに帰らずにいたのか。それも死ぬまで。
イェーツとか著名な文学者がしょっちゅう来い来いって言ってるのにアイルランドに帰らずじまいだったらしい。
帰らなかった望郷者というと、日本でいうと、まっさきに阿倍仲麻呂を思い出す。
だが、ジョイスの場合には、地理的にもスケジュール的にも帰れたはずである。
なぜ、帰らない。
ひとつ考えられるのは、ジョイスは飲んだくれてはいたが、やはり文学主体の考え方で生きていたのではないかということだ。
文学を損なうおそれのあることはどうしてもやれないのがそういう人たちの生きかたであろう。
帰郷というのがジョイス文学に致命的打撃を与える・・・
そういうことが言えるのかもしれぬ。

日本でもしも、ジョイス文学をやろうとすれば、それは離島しかないということになるかもしれぬ。
幻想上の離島でもいいのだとすれば、幻であり夢の中にある朝鮮というのも考えうる。
しかしそれが少しでも朝鮮くささを出せばもう下の下になる。
アジア的な視座でみて、朝鮮というのもアジアのあらわれのひとつだとして考えれば、一見よさそうである。
だが、そこに中国の問題があり、たやすくはいかない。
中国を無視したアジアはありえない。
中国を重視すれば、共産主義者と思われて日米同盟という最も逆らってはならない潮流に逆らうことになる。
それが、中国文学をも包摂する現代アジア文学者になろうとするときの問題である。
そもそもの、汎アジア文学というのが、非常に難しいのだ。