文学とパターン

どっちかというと、文学は、パターンを崩すというより、パターンを維持させることのほうに役割がある気がする。
形式主義といえばそれまでだが・・・
過去において新時代の旗手といわれた作家においても、明確なパターンが見出される。そのパターンが新しかっただけであり、
パターンというのを崩そうとしているわけではない。
どちらかというとパターンを守ろうとしている。
ただそのパターンが新しいのだ。
パターンを文体と言い変えると、今度は文体の中のパターンが問題になる。
文体というのは総体的であり、パターンは個々のパーツにすぎないが、それらのパターンの内のひとつでも組み合わせ方が
間違ったりすると、文体は瞬時に崩壊するように思える。
文体というのが、パターンの集合体だからといって頑丈かというと、決してそうではない。
だったら文体を小さくしようと考えても、それは不思議ではない。
文体が小さいというのは、非常に局地的認識をするということだ。
文体の密室化といってもいい。
密室化することで、文体の自壊を食い止めることはたやすいだろう。
しかし、密室化の逆をいくような文学でいて、文体がぴくりともしないというような文学と密室的文体による文学を比べると、
やはり前者のほうが優れているといえなくもない。