音韻について その1

音韻というのが、というより、そもそも、音素というのが、言葉に対する冒涜であり、過剰な細分化であり、不適切な分類であると仮定する。
だとすれば、分類後の音数、日本語なら50音を、事後に緩和するために、音韻に気をつけねばならないのかもしれぬ。
語感というのも同様であり、比較的合理的に分類されたものを無批判に止揚するという点において、言語に対する態度としても、自分に対する態度としても、ひどいことをした、と自覚すべきであり、その反省の心からやらねばならないことなのかもしれない。
だが、このことは、社会的に言うと、脱社会というか、反社会までいくのであり、それほどまでに社会と、本来の意味での言葉とは、隔絶しているのである。
であるなら、社会と、本来の意味での言葉を、近づかしめる努力をせねばならぬことになる。