huskyで「がっしりした」という意味がある

「しゃがれた」という意味があるというのに・・・
これでわかったことは一つ。
英語は、言葉そのものを尊重していない。
状況による意味変化を容認している。
状況に応じて言葉の意味に柔軟性を持たせることにより、いち早く言葉を発する態勢ができているということであろう。
日本語は違う。
日本語の単語は、それ自体が尊重されている。
それによって単語の意味がはっきりしてくるので、おいそれと言葉を発することはできぬ。
発すれば決するということがある。
言葉を発せずにやりすごせば得する場面があまりにも多いわけである。
意味の変化は、あるとしても、皮肉になるだけである。
皮肉かそうでないかしか日本にはないと言ってよい。
huskyをとりあげてみると、「がっしり」と言った場合に、「しゃがれた」ということにはなりえない。
「がっしり」といったときには、本当にがっしりしているか、実はがっしりしてないか、だけである。
まったく別の意味領域に日本語の単語は入り込まない。
このような露骨な単語群に囲まれながら、日本的あいまいさを表現するには、プラスとマイナスの二元論を抽象化したふりをして、
その実何もやらないことが求められるのではないだろうか。
そしてその何もやらないことに、禅などの中華思想が入り込み、正当化された振りをした抽象的何もなさが産まれかねない。
ひとつはっきり言えることは、英語に熟達するということは日本語をだめにするということに他ならない。
英語も日本語もできる人がもしいるとすれば、パターン暗記が得意だというだけである。
本質的に、日本語と英語はなじまない。
しかし、歴史的過程として、グローバル、融合、融和、ということがあるとすれば、日本語は他の言語と親しみやすいのかも知れぬ。
いや、親しみやすい格好を取りやすいということだけがあるのかもしれぬ。
そもそも何もない、何も起きない、ということが基本的状況である日本において、融和も融合もないのかもしれぬが、
字面だけ英語をカタカナ化して恣意的に取り入れることはある。
ここで問題なのは、カタカナ化される英語には選択性があるということである。
都合の悪い英単語はカタカナ化されにくい。
都合とは、究極的には、資本に資するかどうかということであろう。
意外な盲点なのだが、ドルの紙幣を刷れるのはアメリカなのである。
ある第三国が狂ったように精巧なドル紙幣を刷りだしたら、笑われるばかりか、空爆されるだろう。
資本は人に何でもさせると考えてまちがいではない。
ところで、資本の根本的性質として、自己破壊を拒むということがありそうであり、そのためには資本ですらましなことをするかもしれぬ。
うーむ・・・