戦争映画にて「セ・奇」

Partisans are not civilians;
they are terrorists.
They are not protected
under the Geneva Convention.

こういうせりふがあって、あー盲点だったなーと思った。
テロリストは法の適用範囲外になる例外的存在なんだなということである。
アメリカがややむりくりな軍事作戦をやるときも、テロリストの本拠を叩くとかそういう理由で
強引にやることがあって、テロリストという言葉はそういう法の適用範囲外という話なんだ。
無法には無法、というのはまあ復讐法というかそんなところで、
実はプロレスの技のかけ合いも似たようなところがあって、相手にやられたら同じくらいをやりかえすプロレスは法の考えを礎にしているのかなと思わないでもない。
気になるのは、アウトローはじゃあなんなのって話になって、これはアメリカ的心情を持つ人はアウトローであって、
アメリカ的心情をもたないアウトロー的なことをやる人はテロリストなのだという仮説を立ててみた。
アウトローには理解しうる部分もあるので、アメリカのアウトローはある程度民衆に支持されたりするのだ。
ところがテロリストはまったく支持されないことがほとんどである。心情が見えてこないからである。
まったく心情をもたないかのような者たちがテロリストなのであり、それはアメリカ的では全くない。
それなのにもかかわらず法外な牙を剥いてきたので、これは法外な罰を与えるしかなくなるのであろう。

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ふと思ったのだが、実はアメリカには心がある程度が世界一大きそうなのだ。
心情あふれるというところがあって、それは巧妙に演出されているのかなと思わないでもない。
アメリカは相当考えられて作られていて、弱点もかなり自己分析して自覚しているんだと思わされる。
日本はというと、内部で調整することに一生懸命であり、外貌はというとかなりめちゃくちゃにも見える。
(※外面ソトヅラとはいうが、内面ウチヅラとはほとんど言わないのはおかしなことである。対外的とは言うが、対内的とはやはりほとんど言わない)
ところが内部ではちゃんと調整されているようなのである。
それで回るのかというと内部では回るのかもしれないが、このグローバル時代においては内部で回してもしょうがない部分もあり、
ちょっと大丈夫なのかはよくわからない。