豊島与志雄の文体

http://www.aozora.gr.jp/cards/000906/files/42669_25744.html
ここでかれの作品というか、素案くらいのものを読んでみたが、一流の作品になりそうな感じがしない。
かれの翻訳は一流かもしれない。少なくとも一般に受けるという意味では一流かもしれないが、
彼自身の文学としては体を為さないというのはどういうことだろうか。
さほど米化志向になっていない段階では確かにあの文体ではうけないだろう。
しかし、今はかなり米化されており、そういう意味ではかれの文体を受け入れやすくなっているはずなのだ。
なのに受け付けない。

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翻訳家という人種は、何か人の作品があってそれを後からあれこれする仕事であり、一から作ることはほとんどできないという宿命を持つのかもしれぬ。
ならばやはり人種としては上等ではない。
この仮定から考えると、翻訳からはじめると翻訳に終わるのは意外でもなんでもなく、当然の話である。

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少し気づいたが、豊島与志雄の文体には点が多すぎる。これは翻訳調はそうならざるをえないからしかたがない。
そうなりたくないからわざわざ点を打たない人までいるようだ。
説明調になりすぎている。
説明する視点が天からの視点、なのだろうが、ご存知の通り、日本には天はない。
天がないからというところからスタートしているのが日本であるようなので、天からの視点だとおかしな感じになってしまう。
別の国の話のように聞こえてしまうのだ。
そのありさまがユートピアとか、欧米的なところ、であればいいのだが、豊島与志雄氏は自作においては欧米臭をかなり消すように尽力しているようであり、
そういう苦労が実って欧米風な感じがほとんど消えている。が、その結果まったくどこの話かわからず豊島調の魅力のほぼすべてを削いでいるのだ。
(上の作品では「東京地方」ということになっているが、漠然としすぎている。東京といった場合、具体的な地名がないとまったくどこかわからなくなる)
そうなると読者としてはキャラクターに魅力を求めたくなるのだが、そのキャラクターが揃いも揃ってほとんどのっぺらぼうのようなのだ。
ここにはなぜか類型ですらないキャラクターしかいない。
ほとんどなんのためにいるのかがわからないキャラクターしかいないようなのだ。
作品全体として、説明を繰り返していることはわかる。わかるが、最終的に何の説明をしたいのかがわからない。ところどころにとても面白い表現や言い回しがあるが、全体としてあれっと思えてしまうのである。
「本当は何も説明したくない」のではないかとすら思えてしまう。
逆に言うと、それほど1920年代から1940年代に至る日本がシビアだったということも言えそうである。(「死因の疑問」については1951年発表ということだが話は1920年代くらいじゃないかと思われる。奉公に出たということは実家が経済的に困窮したからと言えそうだから)
稀代の翻訳秀才を動員し、空疎な創作を行わしめて結局ほとんど徒労に終わらせた日本というものは一体なんなのか。
ここはもっと掘り下げてよいところではないか。

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現代の翻訳調作家は、「すでに米化された」というところから語りはじめているようである。
それゆえ、豊島与志雄を困らせたような問題はほとんどなく、
あとは売れるための技術を磨く、という最大の難関をクリアすればいいようである。