放射能を信じない自由はあるのか、という問題

放射能がある」といわれて、いやそんなことはあるまいという態度の人がいてもおかしくはない。
そのような態度の人が放射能汚染された場合に、「放射能に汚染された」と言うことができるのだろうか。
放射能を信じてない人にとっては、放射能などありえないのだから、放射能に汚染されることもありえない。
ところが、放射能に汚染された人を放射能に汚染されてないということは、言えないようなのだ。
われわれ全員が放射能を肯定しなければいけなくなっているのである。どうやらここが放射能のミソなのである。
ほかの科学的ことがらにおいては、肯定しなければ科学者からアホだとはいわれるが、肯定しようがしまいが一般人からは何も言われないことがらの方が多い。
ところが、放射能に関しては、肯定し、なおかつ正しい情報を集めていないと、広く一般からばかもの(retard)の汚名をうけることになるようである。特にこのような放射能事故が起こったときには。
そのように、強制的に肯定されて知らされなければいけないものは、自由を奪うことにはならないのだろうか。知らない自由が保障されてないわけだ。
いやしかし、そうではなく、災害情報であれば皆が喜んで知りたいわけだ。
火災や水害や地震災害などでは。
ところが原発事故は局地的二次災害なのであり、ふつうは局地的二次災害というと関係ない人のほうが多い。
ところが原発事故はかなり多くの人を巻き込むことなので、やはり皆が喜んで知りたい情報ではあるのである。
ここがかなり特殊なのだ。

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原子力というと、20世紀における最大のハイライトシーンのうちのひとつであることは間違いなかろう。
しかし、原子力が20世紀においてそのような地位を占めたからといって、21世紀にさらにスポットライトが当たるかというとそうとは限らない。
エネルギーを浪費し、消費サイクルを拡大させながら膨脹していくのが20世紀のモデルなら、cleverにエネルギーを使い、消費サイクルをmodestに循環させていくのが21世紀のモデルなのかもしれない。