脱原発は他のものも脱せねばならないか

脱原発をやることで、脱構造にまで引っ張られるのではないかという疑念がふとわいた
日本における構造とは唯一無二のものであることが望まれ、それにぶらさがった準構造はあたかも自分が構造のようなふりができてしまう。
ここに日本的構造の問題がありそうである。
その一端、いや先端、昔の先端、そして末端である電気を司るという意味での凸型の原子力発電所
その興奮によって蒸気を発生し(発蒸)、タービンというついに和語化できなかったピストンと同類のものを回して、国民の欲望を過剰電気によってサポートする原子力発電所・・・
この「所」という一文字は問題である。
海外では、ヌクリアーパワープラント(nuclear power plant)という。plantとは、工場という意味が強い。「所」というと、siteのことである・・・
だったら、原子力発電場のほうがいいのではないか?
しかし、「所」を持ってきているのである。
「所」というと、昔から政治的な場である。
政所、侍所・・・
だとすれば、原子力発電所というものは、民営の行政機関の一つであるといえよう。
地方のなんでもないところに原子力発電所が建ち、そこから、思いがけずもいわゆる官業を補強するという、かなり意外性のある効果がありそうなのである。
そういう意味でも、原子力発電所は極めて重要だったのである。