嘘と仮定法

嘘というものは、何か
よくよく考えたら、現実で通用させるべきもの、ということになろう
嘘をつくのが下手、という人は、嘘をついてその嘘を通用させるのが下手、というわけであり、嘘をつくのが上手な人よりも、損をするのである。
欧米では、嘘をつくことは神に背くことという考えがあるようだ。
そこで、仮定法が発達したのではないかと思える。
これは嘘じゃないんです、仮定なんです、ということを神に向かって言えるわけである。
いっぽう日本では仮定法といえるようなものはさほどなく、あっても内心の後悔や願望を表すことが多い。
日本では、仮定法のかわりに嘘術が発達したのである。
ところが、嘘術は日本語から例えば英語にすると、とたんに破綻をきたす。
それを、文化の違いといってしまえるのかどうかである。
文化依存の嘘なのである。
文化依存の嘘ということは、政治依存の嘘という側面もあるだろう。
嘘空間というものが、ひとつはあるのだろう。日本人が、コミュニティーを作り上げたと同時に嘘空間を展開して、それは球形なので、互いに重なり合うところには具合の悪い嘘は持っていかないということはあるだろう。
それは、こじんまりとした日常生活上でならばいいが、グローバル化した世界の上では、重なり合いがよく把握できない。
なので、日本人は、国際舞台では、黙っているよりほかはなくなる場合が多いのではないか。

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嘘をつくのが上手くて、それを誇っているような人は、個人として嘘をつくのがうまいというよりも、自分が所属するコミュニティー(=嘘空間)における嘘の電波塔のようになっていることが多い。
それは、どこまでいっても毅然とした態度とは言えないのではないか。

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嘘は、日本では、誰に悪びれる必要もない単なる処世術の一つである。
失敗さえしなければ、嘘はどんどんやっていいことなのである。
小説家が嘘をついていいか。
小説が嘘の温床になっていいか。
嘘と仮定法を小説にどう持ち込むか。
仮定法を厳密に積み重ねていった先のもので圧倒させるのが小説なのか、嘘を撒き散らして読者をけむにまくのが小説なのか。
かなりのギモンである。