altruist :利他主義者

私が、altruistという言葉を知らずに生きてきたのはおかしい。
私がおかしいのではなく、文化や社会や言語環境がおかしい。
31年生きてきて、この私にこの言葉にまったく一度も触れさせないとは何事か。
egoist とはみなさんがよく言う。1千回以上見た言葉である。
ところが、altruist とは誰も言わない。
egoistと1千回言うのであれば、せめて10分の1の100回くらいは altruistと言うべきであろう。

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そもそも、なぜエゴイストとみなさんがよくいうのか。
エゴイストとは西洋的か?
訳語としてある利己主義、とはどういうことか。
なぜエゴイストとは言うのにアルトリストとは誰も言わないのか。

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逆のパターンもありえたわけだ。
altruismだけが用いられ、egoismとは誰も言わないパターンもありえたのだ。
なぜそうはならなかったのか。

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たぶんこういうことか?
自分の所属する集団内の他者に対する利他主義は、日本ではエゴイズムのあらわれとみようがない(全くのいいことのように扱われる)が、欧米ではそれはegoismの典型的な一つのあらわれと考えている面があるのだ。
(たとえば滅私奉公と言いながら自分が滅せず生き続けるのは言葉の意味としては矛盾している。滅私奉公と人が言う時、自分はその集団にとって必要不可欠な者であるという自負があるのではないか)
それは日本としては容認しがたい。
自分がエゴイストなどと西洋思想から言われることは、言語上の逆立ちをしてでも認めたくはないのである。
だから、egoistの反対語である altruistという単語をなかったことにした。
なぜそれで丸く収まるかというと、egoistしか単語がなければ、egoistの度合いでしか図らなくなるからである。
人を悪の程度で測るようになる。これは、減点式であり、そういう面からみると、日本におけるテスト主義のたまものである。テストでは、採点基準は加点要素だが、前提として、満点からの減点ということがテストの基本であるので、減点式と言える。(よくよく考えたら、ひょっとしたら、これはあてずっぽうだが、日本において学校秀才が活躍し出したころと、エゴイストという字が文壇で踊りだした頃は、かなり時期を同じくするのではないか)
(悪の程度で測るようになると、問題が出てくるかもしれぬ。絶対善の集団に自分が属すると、どれだけその集団内で悪を働いても、絶対善が強すぎて悪に至りえない可能性が出てくる)

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こういうことが氷山の一角だとしたら、空恐ろしい話である。
ひとつありそうなパターンを想定しておくと、このような単語があるとき、2つとも単語をなかったことにはせず、自分の側に則したものか、他者の側に則したもの、どちらか1つだけを登用するのだ。
そうすることで、意味の通りを悪くし、言葉を澱ませ、人心を乱すことによって、一定の効果が得られる。
どういう効果かというと、人の目を回し、人の頭を空転させている間に、自分たちが好きなことをやりやすくする効果、である。