裏切りはありえないはずだという信仰

聖域には踏み込まれないという信仰
しかし、ぶっちゃけていうと、日本では皇室だけが聖域であり、他はいつでも破壊されうるのではないか
その皇室でさえも、江戸時代あたりからずいぶん不自由をするようになった
聖域の本尊ですらそのありようなのだ
聖域などないのである
「聖域なき構造改革」などと言った政治家がいたが、もともとないものをさもあるかのようにして問題化するということは、政治の一つのやり方なのだろうか。
比較上はありうるかもしれない。
たとえばフリーターと国家公務員を比べたら、確かに国家公務員のほうが聖域度は高い。
しかし完全な聖域ではないのである。聖域じみているというだけである。
完全な聖域ではないものを聖域と言えるだろうか。
そもそも政教分離なのだから、聖なるものが政治に持ち込まれるわけがない。
「聖域なき構造改革」において聖域といった場合、聖域のことを言ってるのではないようである。
安全圏におけるところの現状維持、を言っているのである。
今までやってきたことをそのままやるということを、許すか、許さないか。
それを判断するのは、今までやってきた人たちである。
投票しかしない国民が、判断するわけがないのだ。
どうも、わが国における投票とは一過性のものであり、定期的に訪れるひきつけのようなもので、一貫性のある意思ある行為には思えないときがある。
形骸化といえば響きはいいが、形になる前に骸のようになっているのであるから、亡霊に近い。
亡霊と幽霊の何が違うかというと、幽霊より実体性が薄いのが亡霊ではないだろうか。
幽霊の死に体(lame ghost)ということである。

  • -

とてつもないような政治熱が巻き起こって、みなが死ぬほど政治に関わりたがるようになれば、それこそ性交以上に政治に浮かされるようなことがあれば、それはそれで喜劇ではあるだろうが、現実上はそれは起こりえない。
政治熱がすごくなる喜劇というのは面白いかもしれん。