新聞社がなぜまだ衰退しないか

アメリカでは、いま、新聞がもっとも衰退している業種となっているらしい
日本でも衰退してはいるが、それほどではない
どういう工夫があるのだろう
日本では、衰退するとはいっても虚業でない限りはドーンと落ち込むことはないようだ
特に権力と関わる業界は衰退しにくいのだ
新聞が第四の権力と言われて久しい
日本の権力には何がないか
止揚がない
すでに完成されたものを保守すること
海外の思想なり流儀を取り入れるにしても、付属品として取り入れる
主な骨格にはしない
では、主な骨格がなんだ、というと、はっきりとしていない
ぼやぼやもやもやしたものを主な骨格としている
それが、国体となったり政体となったり、広い意味で体制になっているようだ
新聞業界は、そのぼやぼやもやもやを倣っているのかもしれん。
体制打破、というよりも現状追認、現状保守。
そもそもが、新聞とは民の現状認識を左右するので、そこがうまく民の気持ちを収めてくれれば、体制のほうはありがたい
そこで、体制と新聞はタッグを組むことになる
表立ってはやらないが、あうんのこきゅうというのをやることになる

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新聞は、叩いて売れるとなれば急に叩きだすのである。
金ほしさから来る批判なのだ。
本当に誠実な新聞があるとすれば、宗教新聞しかないが、実際それはある。
ただそれは、信者向けの誠実さである。
では、国営新聞があればいいではないかと思われるが、それは共産主義国家における新聞である。
誠実さを示すための新聞というより、統制するための新聞となる。

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だいたい、新聞とはおかしな訳語である。
news paper を忠実に翻訳するなら 新紙 にしないとだめである。
新聞はなにも喋らないから聞、にするのはおかしい。
見聞、とはいうが、その意味で聞を使うにしても、二字熟語の後ろひとつだけをひっぱつのはへんである。
新聞、よりは新見、のほうがよい。
ところが、見ることは誰でもできるが、読むことは特権的なことだったからむかしは。
無学者は見ても読めない。
見るだけなら無学者でもできてしまう。
ならば新しいことを文字を見て見聞する、ちぢめて新聞、ということかもな。
朝報、というのもあった。
朝のお知らせ、という意味。
そのままでひねりがないが、朝報と聞けばすぐわかる。
ただ、朝報というと、官がやっている感じがすごくする。
そもそも、報というのは官の専売特許である。
新聞は民がやるという性質が出ないとまずい。
報道ということばがあるが、これはいわゆるマスコミのやることということになっている。
ところが、報道というのを字から見ると、報じる道、であり、これは国家だろうが私人だろうが誰でもやることである。
官の専売特許であった報、に、古代中国風の言葉である道、を加えて報道、として、いわゆるマスコミがそれを専用する。
こうして考えてみると、かなりねじれたことになっている。
すんなりストレートには来ていない。
妙な二字熟語が、だいたいあれっというような語と、なんでそれが今、っていうような語が合体してできたあいのこになっている。
僕は今度から、こういう二字熟語を混血語と呼ぼうかと思案している。