仕事と労働

1:ケルト文学復興に燃えた彼等の夢と熱とがすこしでも私たちに与へられるならば、そしてみんなが各自に紙一枚ほどの仕事でもすることが出来たならばとおほけなくも思ふのである。


2:世は裕かで、貴族でもない労働者でもない中流階級の私たちは、帝劇に梅蘭芳の芝居を見たり、街でコーヒーを飲んだりして、太平の世に桜をかざして生きてゐたのである。


1:では仕事ができたらいいなとしいる。
2:では私たちは労働者ではないとしている(この場合、読者にも労働者が想定されていないということであろう)

仕事と労働を分けて考えているということだろう。この2つが交わることはないとすら考えていたのかもしれない。


もっと気になるところもあり、貴族であってもイコール仕事ができると考えてはないだろうと考えられていたであろうこともある。(この場合文学上の仕事である)
昔なら、貴族というだけでひとつの生きる文学的業績だったのだが、文壇ができてからは、貴族であっても登竜門を通らなければ文学上の仕事として認められないというようなことがあったようだ。
穿ってみると、どんな凡才非才でも、登竜門を通れば文学界隈では終身認められたようなものであり、そこはゆるいのである。
そのゆるさは、財界や政界に似ているところがある。
厳しい才能勝負ではなく、処世術勝負になることが多いということである。
この作家は処世術が上手なのである。
ごまする先をよく知っている。
であるから、世に棹さすようなことは決してしない。
感性が自由というわけではないのである。
それで、もし僕がこういう女流作家を責めたとしたら、女をけなすような奴はけしからん、ということになってますます僕は人気がなくなって嫌われる。
であるから、「まあまあ当時賢いとされていた女性が考えたことは一応尊重しましょう」という態度を取らざるをえなくなる。
女流作家に対しては、まともに批判することがかなわないのである。
今はどうか知らないが。そもそもいまの女流作家の作品がどういったものかもよくわからない。
今度ちょっと読んでみる必要があるな。