神様がいないなら日本ではデカルトが成り立たないのではないか

オッカジオナリスムもだめだ
神が原因ということにはならない
神の後ろだてによる理性も想定できない
じゃあ何が後ろだてか
おそらくなかま意識だろうか
なかまと同調しているうちは間違わない
正しいとは言わないのがみそで、そのようなポジティブな主張は日本人はやらないのである
自分が正しい、わかっているとは言わない
じゃあ謙虚なのかというと、まちがってないことには異常なまでの強い自信を持っている
じゃあ日本の理性はなかまか
では日本の狂気とは何か?
実は「なかまはずれ」なのではないか
いじめというのはじゃあ何かというと、形上の狂気に追いやろうとする工作と言えるだろう
ちょっと穿った見方をすれば、たとえば障害者受容においては、本来はとんでもない「なかまはずれ」なものをあえて受容することで進歩的だという評価を得られるので受容するのであって、実際に障害者を思いやるということはあまりしてないのだろう
なんにせよ日本人は形にこだわる
なかまというものも主義主張を同じくするから一緒になるというよりも、形をつくるためともいえる
形に対してのある種の信仰があるのかもしれない
それが正しい形かどうかの判断は、個人によるものはなかなか難しいところがあるのだろう
なぜなら日本人には純粋理性という考えは全くないのだから