日本と欧米の汎神論のちがい

日本では汎神論というと目に入るモノすべてに神が宿るということになる
日本的汎神論は、モノが相手なのである
しかも、「宿る」といって時間を前提にしたありようで神が介在しているとしているにもかかわらず、相手にするものは眼前にあるものだけである
つまりは中途半端な信仰形式、即物的信仰が日本的汎神論であるといえよう
ところが、欧米で汎神論というと、ものではなく抽象物、おもに人間の理性なりに神が宿るということのようである
僕はずっとわからなかったのだが、無教会主義のセオドア・パーカーが唯一神教徒でありながら汎神論的信仰といわれる理由がいまわかった
彼がいうのは、各信徒のあいだにおいて汎神ということであり、教会が教義によって信徒をがんじがらめにして、細則によってしばりつけるとかえって神から離れるということなのである
僕は今ストリンドベリイを研究中だが、かれがいっぽうで生理学者をあがめ、いっぽうで唯一神教徒をあがめるということは、彼の分裂気質形成にいささか関与しているといってよかろう
自然を愛好したストリンドベリイは、宗教においても自然を見出そうとしたのであろう
ところが宗教においてはどこかは必ず不自然なところはあるのである
これがかれを悩ませた
日本の文学者に目を転じると、ストリンドベリイと同じように日本的宗教に目を向けた作家もいただろう
まあ、なんといっても作家業をやるにあたって有利なのはキリスト教徒か仏教徒であろう