日本において何かをコントロールしたいという欲求をもったとき

必ずと言っていいほどそれは宦官的性質を帯びるようだ
無能力者が現在ないし潜在すると思えなくもない能力らしきものを抑えようとするという構図になってしまうようだ
それはいつもひろい意味の貴族による怪物退治譚の様相を帯びるとも言える

日本では太陽の下で力を誇るギリシャのような美徳は生まれない
それはあまりに反日本的である
いわゆるマッチョタイプの政治家も有力者も
借りてきた筋肉を誇っているのであって自分の筋肉を誇っているわけではないようである

むしろ重要な点は借りてきたものなのに運用可能になる日本のいい加減さ、柔軟さにあるとも言いうる

しかしそれは不定形で奇形で日和見的で卑怯で無個性でのっぺらぼうということでもある

空気さえよければ何でもできるのが日本である
果たして僕はというと空気がよくてもやれなかったり、空気が全くよろしくなくてもやったりするから、とんちんかんということになろう
あるいは僕をダメだと判定する人が多少なりともいても不思議はない
ひるがえってさきほどの話題に戻るが、では支配構造の中で中間管理職になるものは、むしろ性的魅力を振りまくことが求められなくもないようである
ざっくばらんにいうと、日本では性におけるグラデーションは、上に行くほどどんどん薄くなっていき、中間では性がやや濃くなり、中から下は薄くなり、最も下は性しかないような有り様となるようだ

僕は日本の古代貴族文学において性が扱われたというとき、こういった下々のものがやるようなことをまさか貴族がやるという意外性を書いているらしいことを見出すことがある
これは人間主義、人間賛歌というより、まさか私ほどのものがという失敗譚、尊い人をおぞましき地点に引きずっていく悪魔、というより鬼の所業を描いたとも言える
これははっきりしていることだが、古代人において性欲は共通項ではなく、性欲に次元の違いがあるということであろう

今の性欲平等思想から見てしまう文学研究はちょっとずれていると思わなくもない

仏教の位置づけも、諸行無常と言ったといっても、もろもろの行為が常ではないというより、もろもろの行為を無効化してくれることに重要性があったようにも思える

行為に意味があったり効果があったりすると困る人は多いのである
意味があり効果があると批判されてしまう
無効なものを批判するとんちんかんはいないのである
ほんとうに強い作家なり詩人なら、自分の有効性、能力を誇らざるをえない
しかしそれはかなりストレスフルであろう
まわりは全員がそうではないのだから必然的に孤立することになる