自由

自由でいることをして
自由権の行使かと思われたら
安っぽい自由権の行使かと思われたら
後先を考えてない愚行だと思われたら
きっとぼくは自由でいられないばかりか、
自由であると思われることも嫌い、
かえって不自由な態を取ることになるだろう
自由とは
社会との関係性の上で考えられるが
じつは
社会からの覊束を拒む点に
自由の骨子がある
ということは自由とは
資本主義社会における超管理社会下における自由とはすなわち
資本と主義と社会と管理から、じぶんまたは自分たちまたは自分および自分たちまたは自分ではなく自分たち、
を、自由に守ってくれる楯を持つことに他ならず
楯がわれわれを少しも押さないと知覚される、という点まで
楯に隷従すること、にすぎない
しかしそれは奴隷の道徳に帰着するのであって
それこそニーチェが嫌ったものであったが
ニーチェはただの外人なのであり
ニーチェの日本版の人物を探さねばならぬ
おらぬのなら
われかかれがならねばならぬ
しかしあえてなろうとして
具体的な序盤の行為が思いつかないので
これはどうでもよい
ひるがえって思想に目を向けると
日本思想の根幹は本当に
ヒストリックな点にあり
ヒストリックは近代を
おさえつけるのだが
よく考えたらわが自我は
近代をおさえつけられても痛くも痒くもないのだから
どうでもいいことではあるのであり
痛いとすればそれは
まっとうでありたい矜持が
わたしの心を押し上げているだけであり
それはかわいそうなわたしということなのであり
それを暴きだすのは白々しい
知らないでもわかっていたことではないか
それをあえてする必要はなかろう
さて神も誰も死なず
叫ぶとすれば
「神は死んでない!」という
痴的発言、おそらくいくらか涎を見せながらの発言を
誰も来ない田舎の林の木にでも
するほかはないのである
誰もわたしを含め
そんなことをあえて言いたくはないであろう
言う必要もないのだ
批判はヒストリックから絶対にはずれていなければならない