東京殺し

東京が僕の時間を奪っている
僕の各種体液は
東京で無駄に流されていると疑われる
周りの人間が僕と異質に感じられて
親和的ではないと感じる
だがその距離感が心地よくもあるのが曲者なのが錯誤かもしれないが
一般的中期青年期の人間の感じやすいまっとうな日常感覚の一つなのかもしれず
かといって一般の枠に自分を入れるとそこには芋づる式に何もかもを宝箱からみんなの箱に入れなければならなくなる
僕は宝箱を開けられてまさぐられて全部を奪われたことが一度や二度ではないと思う
のみならず毎日奪われている気がする
しかし宝箱には自動で補充が行われていることがまた疑われる
その補充機能によって人は生きられるのであり
それは金にまつわる希望と失望と有望である気がする
ところが有望というとある人間の将来性の話であって、失望の先に絶望はあるが、
失望の前には何もないのであって、
それはつまり、失望の前にあることばをありえさせなくしたい欲望があるに違いないのだ
本来は、希望の量によって大望>有望>0>失望>絶望というふうに順にことばが並ぶべきではないのか?
ところがそこに、前近代的官僚ワードである有望、が割り込んでことばを官僚化するのである
断っておくが、わたしは官僚をきらいなどというつもりはない
官僚制がいささか気になっているだけなのである
私は、官僚を官僚などと思うつもりはない
いやそうではないのかもしれぬ。
そもそも希望ということばの反対は、呪望くらいがいいのかもしれない。
しかしおかしいのは、希望関連の一連のことばは、全部個人主義的なのだ。
ここがかなりねじれた言語体系の一つのあらわれだと思う。
皮肉のニュアンスがあるのかもしれない。
法人は希望しないのだ。
法人がするのは、希望額である。