セックス文学を批判したとしても

いやいや、「源氏物語」はセックス文学じゃないか。
最古にして最高の文学がセックス文学なのだから、現代においてセックス文学をやって何の悪いこともない、それどころかセックス文学こそが正道なのだ。
こういう反論が来ることが予想される。
それに対して、ではセックスは近代化されなかったのかと再反論しなければならない。
いや近代化された、恋愛が生まれた、と反論されるだろう。
いやしかし、恋愛が主ではなくてセックスが主ではないか、それは近代性がなく野蛮ではないかと反論する。
以下は議論形式。Aがセックス批判に批判する人。Bがセックス批判をする人
A「近代性がないといってお前は欧米人か?」
B「いや欧米人ではないが近代性がなくセックス依存になるのはおかしいだろう」
A「セックス依存ではない。マックス・ウェーバーもいうように近代における個人は高度に細片化されるので、自分を取り戻すもしくは再確認するという意味でのセックスというのが重要になってくる」
B「しかしセックスばかり言うのはおかしい。他にも高度に文化的な営為があるはずだ。文学や絵画や音楽など」
A「それらは性欲の昇華だ。性欲がすべての根源なのだ」
B「いや人間はもっと立派だ。君の考えからいくと人間はアニマールだ」
A「もともとそうさ。隠してしまうほうがおかしい」
B「人間の歴史は性欲をいかに克服して偉大になるかという歴史だ。いまさら性欲に立ち返るのはおかしい」
A「それは欺瞞だ。セックスを省くのがおかしいのだ」
B「しかしセックスばかり重要視すると、セックス管理社会になるぜ。セックスで上に行くものが社会支配機構にできてしまう」
A「セックスはセックスでありさえすれば自由意志の発現なのだから尊い。そういうふうに、社会とセックスを結びつけてあれこれ邪推する考え方はセックスに対する冒涜である」
B「僕はごまかされんぞ。セックスに対する君の姿勢はおかしい。この社会がいかに性欲で塗りたくられているか告発せねばならぬと僕は感じている」
A「おかしいのは君だよ。それに君、性欲が屈折してるだけじゃないのか」

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ひとつ思ったのは、「源氏物語」のいやらしさというのも見方を変えればないこともない。
あの作品には、セックスと天皇制を扱いさえすれば朽ちないだろうという計算があるのではないか。
その計算は女の計算とも思われない。周りに計算高い男たちがいて助言しつつ、作り上げたものとすれば、「源氏物語」の作者性はかなり薄まる。
源氏物語」が洗脳文学であるという面をもつ可能性もあるのだ。