英語圏の人の質問は内容が問題になる

ところが日本語圏の人の質問は、内容よりも立場や場の状況のほうが問題になるようである。
そのため、日本語圏の人は質問にはいかいいえかでしか答えられない状況におちいりやすい。
はじめから質問の内容は問題じゃなくて、問われているのは態度であり、質問するほうが下なら下手なことは言えないから相手が目をつむってうなずくようなことしか質問できないし、質問するほうが上から相手がおびえきってうなずくようなことしか質問できない。
どちらにしても、日本語圏の人の質問が建設的になることはほぼないといってよさそうである。
ではいつ日本語圏の人が建設的になるかというと、その機会はまあ様々にあるのかもしれないが、明らかに英語圏の人々よりは建設的になる機会が少なくなるだろう。
話を戻すと、日本語圏の人の間で、よく誘導尋問といわれることがあるが、上のようになるのであれば、尋問自体に誘導の性質があるのだからそれは仕方のない面がある。

  • -

だから、刑事事件の自白においても、はいいいえを被告人の立場に沿って選ばせてしまって、それが冤罪になったりもするのかもしれぬ。
そもそも日本では、「疑わしきは悪」でずっとやってきたのに、それを戦後になっていきなり「疑わしきは罰せず」と言うようになったことに無理があるのではないだろうか。

  • -

日本語圏の人にとっては、内容が問題じゃなくて、肯否が問題になるのだ。
さて、「肯否」という言葉がない。
言うまでもないことだが、「正否」しかないのだ。
答、定、の字とからめてまとめてみる。

肯定、否定・・・ある
正答・・・ある
 肯答、否答・・・ない
 正定・・・ない

こうして見てみると、「正答」がすごく際立っている。
あたかも「正答」があるかのようなふうに言語体系がなっているのかもしれぬ。

  • -

非常に粗い議論もあってむなしい気持ちになるが、「肯否」がないということに気づけただけでもよかった。
ちなみに、「首肯」は態度を身体表現で示すということであり、質問に対する言葉による応答ではないだろう。